2012年9月22日 おそれて、こわがらず / 権上かおる

みなさま
権上です。

●先月ご案内しました、「過酸化水素+モミガラ方式」屋根等除染について、多くの反響をいただき、ありがとうございました。
しかし、現状は、伊達市と郡山市(私の知る限り)は、「屋根の除染は行わない」と決めたそうです。
こういう手があるのですね。住民の健康を守ると言う視点は全く持ち合わせていないのでしょうか。
屋根は、家主の被ばく線量を下げるためには最も要求の高い除染場所なのです。
来週、東京でおおきな除染の展示会があります。庄建技術さんも出展します。興味のあるかたは、現物を会場でご覧ください。(竹橋 科学技術館・9月24~26日 10時~17時 入場無料)
http://www.radiex.jp/

●医療の世界でも同様のことが起こっているようです。
以下は医療ガバナンス学会のHPで、亀田総合病院の小松先生が、相馬・南相馬のホールボディカウンターで調査を続けている坪倉先生とこれを阻む南相馬市副市長(総務省出身)のやり取りを紹介しています。
専門職の役割や倫理をナチの例等をひきながら、明快に述べておられます。
少し長いですが、頑張って読む価値は大きいです。
http://medg.jp/mt/2011/12/vol35012.html

●現役の大学院生の文に感銘を受けました。許可をいただき、ご紹介します。読んでいただければわかるように機械系の学生さんです。この短文に事故の問題点や私たちに求められていることが盛り込まれています。

原発講演会を聞いて
 (栗山)
星新一が、1 9 5 8 年にこんな小説を書いていた。 題名は「おーい でてこーい」。 台風一過のある村に、突如として直径1 m ほどの謎の穴が出現する。ある人がその穴に向かって「おーい でてこーい」と叫び石を投げ込んでも、何も反響がない。 やがてその穴は、ほとんど底なしの穴だと分かる。 利権屋がその穴を買い取り、「原子炉のカスなんか捨てるのに絶好でしょう」などと宣伝し、人々が原発のゴミ、都会のゴミなどを次々と捨てにやって来る。 穴は一向に埋まる気配もなく、都会はどんどんきれいになっていくように思われた。だがある日、新都会の建設中ビルの高い鉄骨の上で、作業員が空から、「おーい でてこーい」という声を聞き、その傍を石がかすめて落ちていくのであった。

ここで小説は終わる。このあと街には何が落ちてきたか?そして、星新一十八番のブラックユーモアは、もはやユーモアではなくなった。フクシマで、取り返しの付かない原発事故が起こってしまった。ヒロシマ、ナガサキの被爆に対して、今回は自爆だという見方もできようか。あるいは、放射能汚染の将来的な被害を考えるなら、「フクシマに落ちたスローモーションの原爆」とも言えるだろうか。
このような事故が起こってしまった以上、我々は原発を手放しに推進することはできない。ところで、そもそも原発とはどのような装置だったのか、どういった問題点を持つものだったのか。

佐藤国仁氏は「安全」の定義を、「受入不可能なリスクがないこと」と述べており、また「機械は速く動くと共に、確実に止まれなければならない」とも言及している(注1)。 すると、連日メディアで放送され、また今後もされるであろう今回の原発事故を見る限り、原発は以上の条件を全く満たさない装置だということが明らかである。 したがって現行の原発は、「安全」の観点からは、存在してはならないということになる。

さらに、原発という装置からは、簡単には処分できない「ゴミ」が出る。核廃棄物である。この処理には、何十年何百年どころか、何万年何百万年もの時間がかかってしまう。これは、人間が想像可能な時間をはるかに超えているがゆえに、愕然とさせられてしまう。このことは、たとえ今原発を廃止したとしても残る大問題である。

すると我々は、原発および今回の原発事故を考えていく中で、電力供給源としての原発、ひいては核エネルギーの「特異性」という壁にぶつからざるを得ない。大津波による今回の原発事故は、いくらなんでも想定外だった、という見方もあろう。もちろん原発には、事故防止・対策のためのあらゆる制御装置がつけられていただろうから。しかし、想定外であったとしても、一旦事故が発生すれば日本の一部を不毛の土地にしてしまい、かつ計り知れない人体影響へのポテンシャルを持つ原発というものは、少なくとも、「電力供給源の一つ」という発想からは外すべきであろう。また、核エネルギーの特異性という意味では、核廃棄物の問題は決定的に思える。私は原発に反対する。

冒頭の星新一の小説に戻ろう。私はこれまで学校の授業などで、原子力発電は二酸化炭素を出さないクリーンなエネルギーで、少ない燃料から多くの電力が賄える将来性のある方法だ、と習ってきた。クリーン、電力、将来性ーーー原発は、我々が未来へ託した一つの夢であったのかもしれない。この人間心理の隙間に、星新一は入り込む。ますますきれいになっていく大都会、エネルギー供給、未来型の生活ーーーそういった夢、希望の裏に、我々の邪魔物をきれいさっぱり洗い流してくれる穴が、いつの間にかポッカリとあいていた。しかし、その穴は幻だった。我々が忘れようとしていたものは、今きっちりと、現実として空から落ちてきた。

夏も盛りの日、京都・三条の街を歩いていると、あちこちに自販機が並び、これでもかというぐらいにコンビニが立っているのが目についてしまう。そして、ふとこんな考えが頭を巡る。 電力消費というよりは消費者の商品消費に視点を置き、「利益が出るならどんどん作ろう」という資本主義の原理が我々の生活を支配している。 またこのことは、「できるからやる、あるから使う、いつの間にかそれが当たり前」という、人間の欲望と科学の発達の二重螺旋を想起させる。 今こそ我々は、現在流布している価値観を一度疑問視して、「何だ、 別に無くても大丈夫でないか」という体験をしてみるべきではないか。空調にしても、暑くない程度でいいではないか。私は、はじめから便利な現代に生まれついた人間の、身の回りにある便利さへの無感覚といったものを、気にしてみたい。

また、高層建築の建物の階段を登っていて気づいたが、湿気の多い日本では、欧米の閉鎖的な建物を導入したが為に、あらゆる部屋で空調をつけなければならなくなったのだろうか。 こう考えると、吹き通しのよい日本家屋は、日本の気候の特徴に合ったものだったということが感得される(もっとも、高層ビルにしても、土地が狭いという日本の特徴を表しているのだろうが)。 それから我が国では、夏に、物理的には何も涼しくならない「風鈴」というものを、音色が涼しいとかいって重宝してきたではないか。その土地の気候と文化は密接に関係している。つまり、文化には理由があるというのが私の考えだが、今の状況では文明は文化を踏み倒してしまったのかもしれない。我々が本来の日本文化を見直すことは、これからの社会を考えるヒントになるのではないか。

ありきたりな言葉だが、未来に残せる社会というものを、現実を見据えて、考えていかなければならない。そして、最も身近な現実とは、我々一人一人の生活に他ならない。

(注1)佐藤国仁((有)佐藤R&D)「安全工学概論」機械製作実習テキスト

ー以上ー

2012年9月22日 おそれて、こわがらず / 権上かおる」への1件のフィードバック

  1. 権上さま いつも有意義な情報をありがとうございます。
    本日科学技術館に行って来ました。庄建さんにもお会いして、DVDもいただいてきました。

    たくさんの出展ブースも、可能な限り覗いて来、あらためて、除染とは気の遠くなる、完了のない作業であることを思い知らされました。
    科学のことには縁遠くさっぱりの私ですが、せめていろんな現物に触れたり見たり、会社や事業者の名前、機械や器具類の名詞だけでも見知って触れておこうと思いました。

    それにしても、原発を作ってきた側が今度は除染のための商売をする、
    まさに「マッチポンプ」の、これが現場の「出店」であることを目の当たりにしたのはよい勉強でした。
    結局環境新聞のブースで、また小出さんの本を買って帰って来ました。

    送っていただいた冊子は何度か読み、予習して行ったので、よかったです。
    福島に送った先からはいずれも反応はありませんが、何か声があったら必ずご連絡します。
    ありがとうございました。

    医療の世界の話も、こちらが福島市や郡山市の方々から聞く話と、権上さんのコメントと、通じるところとうなずけるところがあり、非常に危機的なものを感じています。

    今後ともよろしくお願いします。

    菊池京子

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