【第3弾 5/18-21】いわきに行ってきました。 / 森まゆみ

大塚モスクの炊き出しのお手伝いに行った、チーム・アサダのメンバー森まゆみからの報告です。
森まゆみブログ「くまのかたこと」では、震災関連の各地の聞き取りをアップしています。こちらもお読みください。

また、運転手兼料理長を務めた浅田やすおさんもご自身のブログでいわき報告を書いています。
あわせてお読みください。http://blogs.yahoo.co.jp/asadayasuo

同じ支援の日々を過ごしてたメンバーが、それぞれの視点で書いたものです。


【5月18日】 岡倉天心六角堂
震災以降の3月13日から被災地支援を続けてきた大塚モスクの要請で、いわき市に炊き出しの手伝いに行った。2002年秋アフガニスタン支援以来、大塚モスクに協力してきた千石の池本達雄さん・英子さん夫妻、運転は区議の浅田保夫さん、そして私。朝8時集合で常磐道を走りだした。今日は配食の手伝いをすればいいので、ゆっくりいく。勿来インターで降りたら岡倉天心美術館への道が出ていたので、「そうだ!五浦の六角堂が津波で流されたんだった」と思い出し、よっていくことに。ナショナルトラスト理事ですというと開けてくれ、見学することができた。松のはえた断崖の上にあった国登録文化財六角堂は白木の床だけ残してすっぽりなかった。お堂は海の中にあるらしく捜索中。回遊路も崩れていた。美術館も五浦観光ホテルも休業中。
 昼はカニ飯の店へ。「築地より直送」の垂れ紙。茨城平潟港は操業していたが県境を越えて福島に入ると禁漁。

勿来のボランティアセンターに寄ったが、もう撤集準備で話を聞くことも断られる。さらにいわき市勿来支所で話を聞く。いわき市は合併したのはずいぶん前だが勿来、常磐、内郷、平、四倉、久之浜と5支所に分れている。所長、課長さんの話。
「3月11日からほとんど家に帰っていません。3月11日で震度6強で長い時間揺れました、ガリガリガリと2分何秒かな、肝をつぶして外にも出られないくらい。思えばチリ津波の時から地区本部を設置して、組織づくりはできていたんですが。各地区では訓練もよくしていましたが何しろ広域で、平の市役所は指揮をとりきれませんでした。だいたい電話がつながらなかったし。勿来だけでピーク時4890人避難者がいました。
避難所のご飯は、各区で米や食材を供出して区長の奥さんとかお嫁さんが何百食も炊き出ししてくれました。おにぎり、つけもの、味噌汁くらいですね。避難所だけでなく自宅で暮らしている独居老人にも届けました。最初は食糧が来なくて苦労しました。生野菜?農村はあるといっても冬は葉ものはないですからね。原発の水素爆発のあとはいわきの人もずいぶん避難してましたし。

物流が風評被害でいわきまで入ってこなかった。それは福島沿岸部を走る車がいわきナンバーだからです。いわきナンバーの車はガソリンスタンドやレストランでも入るなって張り紙された。いわきの農作物も流通では避けられていますね。悔しいです。
 水道、ガスが出なくなってやっと復旧したと思ったら4月11日にまた揺れてふたたびライフラインがだめになりました。困るのはトイレです。水がでないから。携帯トイレは必要ですね。津波は港によって違いますね、向きや形が違うから被害が違う。何で隣りは無傷なのにうちは全壊なんだ、と。そういう差が出てきてしまう。ボランティアの方たちが瓦礫の撤去を手伝ってくれてありがたかったです。長靴に軍手でやっていて慣れてましたね。そのころはまだ瓦礫の下に行方不明者がおられました。
 そのうち物資はどっときて配りきれないくらいになった。洋服なんかはやはり人の着たのはいやだと言いますね。新品があるんだし。あるときまで寒かったけど、いまは温かくなって冬物はあまっています。土日に必要なものを持って行ってくださいと言ったんですが、多少は便乗の人も来ますよね。タダでもらえるならと。
全壊、半壊の人に市で市内のアパートなどを借り上げて一年無償で貸すので、避難所の人数もだんだん少なくなっていきますが、それでも希望と違うのでいやだという人もいますし、新生活をはじめるのに赤十字が配る家電製品のセットを待っている人もいます。
 海は原発のこともありますが、海中に船が沈んでいて網がスクリューにからまったりするので操業は無理でしょう。田んぼもヘドロが入って、塩分もあるので、2年くらいは田植えは無理でしょう。これから市役所が三食お弁当が出る体制を作りましたが、やはり温かい炊き出しのほうが皆さんよろこぶので、これからもお願いしたいです。そしたら弁当のほうを断りますから」

いわきモスクは泉にあった。車のディーラーのラジャさんの案内で到着。ラジャさんは30代のパキスタン人、イスラマバード出身。日本語、ロシア語、タガログ語も話す。モスクにいるムスタファさん、バングラディッシュ人のコックさんマクブルさん、「なかなか来ないので心配しました」という。今日は5時に勿来市民会館と勿来体育館にカレーとサラダを配食。ムスリムは豚肉を食べないのでチキンを使う。

市民会館は階段を上がって二階の和室二室にお年寄りたちと子供のいる家族たちが分かれていた。家は全壊したものの、昼間は働きにいっていたり、学校に行ったり、家の片付けに行ったり、病院に通っている人がいた。「なにが食べたいですか」と聞くと「さしみ」とのこと。浜の人たちはいつもとれたての魚を食べて暮らしてきた。子どもは「お菓子が食べたい」とのこと。もうひとつの体育館では「酒が飲みたい。ここは学校の体育館なので禁酒。でもこの雰囲気じゃね、飲んでもうまくない」というひとも。
 生野菜のサラダをよろこび、残りをもらっていいかしら、と年配の女性がタッパーに入れた。
 モスクに戻ると夕べのお祈り。メッカのほうを頭に何度もひざまずいて頭を床にすりつける。「膝に来ませんか」ときくと、「年取るといたくなる」とうなずく。
 湯本温泉松柏館という由緒ある宿に朝食つき3500円でとめてもらった。ただしエレベーターは停止、朝は湯に入れない。原発関連会社の作業員たちと広野町からの避難者も泊まっている。お風呂で高校生らしき女の子がずっと原発がいつ収束するのかずっと話していた。かなしくなった。


【5月19日】 ガンボロー
 松柏館はインターネットでは湯本温泉のなかでも高評価を得ており、主人は比佐氏、昔の本陣だ。宮尾しげをや田中比佐良の絵がある。戦時中は中野区の啓明小学校が集団疎開していたとか。戦後、高松宮妃が泊まったこともある。通された部屋は一階で広い庭に面していた。朝、庭に出ると石灯籠が倒れている。藤棚の藤が見事だ。支配人は「こんな小さな宿でも43人、従業員がいたんですが、震災後、設備も壊れお客が少なくて13人でやっています」という。営業していない旅館もかなりある。お父さんは常磐炭坑で働き「上がってくると毎日温泉に入ッて、それをあたりまえに思っていました。今思えば贅沢なは話ですよね」という。常磐炭坑は宮嶋資夫「坑夫」にも描かれている。宿の裏には登録文化財のすばらしい映画館があった。朝に小名浜港に入っている原発汚水処理船メガフロートを観に行って、9時にモスクに到着。今日は南の森にカレー。コックのマクブルさんは「わたし、二週間ずっと日本人にご飯作る。お金ないだから体だけサービス」となんども言う。きのうは配食しながら「食べないと体、元気ないよ。いっぱい食べてガンボロー」といっていた。働きながらも時々しゃがれ声で「ガンボロー」とさけび、私たちも唱和する。こういう時のガンバロウは元気が出る。
 サニーレタスを10個とレタスを20個買ってこいという。そんなにいるのかな。安くて品物がいい店を探す。買物にも時間がかかる。買ってくると真ん中の芯のところをぼかっと叩いてとってしまい、外の皮を何枚もむき、固いところや茶色いところを取って洗ってちぎれという。主婦からするともったいない千万だが、しきるのはマクブルさん。
「日本人、目で食べる。茶色い葉、だめ。堅いのもだめ」という。たしかに。サラダがしおれていてはまずい。多いのはまだしも、足りなくては困る。百人分というのが実感がわかない。カレーの野菜の切りかたにも彼なりの流儀があり、いわれたとおりやらないとちょっとおかんむり。「むいて、クイックリー」としかられる。私から見ると油の入れすぎだと思うんだけどなあ。
 1時に作業は終わり、地域紙仲間の「日々の新聞」を平競輪場近くに訪ねる。安竜さんと大越さんの話は映像で撮ったのでそのうち。「がんばっぺいわき」「がんばれ東北」の翼賛ムード、原発の放射能の過小評価にもあらがって取材活動を続けている。4時ころ文京区からボランティアの加藤さんが二ヶ月居続ける平工業高校へ。ここのようすも映像で。避難所が閉鎖になったあと、一人暮らしに戻るお年寄りが心配だという。

カレーとサラダは南の森へ。98人。私たちは江名小学校60人へ手伝いにいく。ラジャさんの友だちの若い女性が筑前煮を作ってくれた。それとご飯、サラダ、りんご、オレンジ、野菜ジュースなど。かなり避難者は減って大きな立派な体育館にぽつりぽつり。乳幼児4人を持つお母さんもいる。聞くとご主人は入院中だそうだ。しょうがいを持つ子どもさんもいて心配。「あの日から人生が変わってしまった」というひとも。

この日、大塚モスクからアキルさんが新しいコックさんを連れてきて、マクブルさんは帰ることに。なんでいわきに来るんですか、とアキルさんに聞くと「東京から近いし、モスクはあるし、人がいきたがらないから」と簡単明瞭。車が故障したことを「車が病気になった」というのも面白い。

7時に終わったので、安竜さんたちとまた意見交換。たった一人でいわきで放射能から子どもを守るママたちのデモを実現させた鈴木薫さんの話を聞いた。これもそのうち映像で。政府・文科省は勝手に子どもを含め放射能の被ばくの上限を20ミリシーベルトに引き上げたが、公表されている放射線量の測り方にも疑問があるし、原発労働者で7ミリシーベルトで発ガンした例もあり、子どもたちを早く福島から避難させたい。といってもみんな何らかの事情と都合の中に生きており、避難所の乳幼児を見ると親に「はやく逃げて」といいたくなるが、とうてい言える状況にはない。


【5月20日】 原発20キロまで走る
 今日は午前中、おやすみ。白水の国宝阿弥陀堂を見学。藤原清衡の娘徳姫が磐城氏にとついだが夫が早く死に、供養のために建てたもので、庭園は国の名勝で浄土思想を著した素晴らしいものだ。壊滅的な海の近くと西方浄土のようなのどかな風景とあまりに差がある。それでもお寺の方は平泉は世界遺産になったがここには風評被害でちっとも拝観者が来ない、と嘆いていた。そのあと彌勒沢の石炭資料館に行った。渡辺為雄さんが一人で作り上げたもの。今86歳、昭和37年まで炭坑で働き、そのあとは養鶏場でとってももうかってほくそ笑んだの、とユーモアたっぷりに語る。「でも今年は山菜も採らないし、野菜も遠くのを買って食べているの。このあたりタケノコもたくさん出るが、あんなに蒲団(皮)を着ているけどシーベルトが入っちゃってとても人にあげられない。でもほっとけないので、毎日掘っては線香を半分に折って火をつけ、申し訳ない、と竹の精にあやまってから捨てているの」ということであった。土地の惠みの中で生きてきた為雄さんならではの言葉。まだまだ石炭は埋蔵されているんだそうですね、原発はやめてそれを掘れば、というと、「いやいや、地球温暖化もありますから自然エネルギーに転換していかなければ」と打てば響くように答えが帰ってきた。
 夜、北上して豊間、薄磯あたりの海岸線を視察するも瓦礫処理の車多く、立ち入り禁止のところ多し。持ち主の解体同意があるとこわしていく。それにしても自分のうちに「こわしてください」という紙を貼る住人の気持ちは切ない。茫然として瓦礫を片付ける人々。犬を連れて何かを探す人。瓦礫の中に見えるスヌーピーやクマのぬいぐるみ新舞子ハイツは営業中。そのさき四倉、久之浜を走る。地域紙仲間「久之浜通信」はどうしているか心配なれど連絡つかず。電車はここまで。
 さらに原発へ向け30キロ線を突破し、20キロまで走る。このためにガイガーカウンターをあちこち手配したが得られず。しかしまだコンビニもラブホテルも食堂も営業中。25キロ地点のJビレッジは東芝の看板、医師と看護師が昼間は待機しているという。大分の救援部隊がいたが誰も防護服のマスクもしていない。20キロ地点でマスクもしていない係員に制止される。大丈夫なのかな。反対車線は原発からの作業員の車がひたすら続く。

四倉高校では校庭で野球部が練習中。第一体育館にも高校生。第二と柔道場が避難所に百人、きょうはパキスタンのカレーとサラダ、野菜ジュースを配る。バングラディッシュとはちがうスパイシーなカレー。
 ライスとカレーを別盛りにしてくれという人あり。ブログを書かなくてはという人あり。「はじめは400人いたんです。この二ヶ月のこと何も覚えていない。トイレが汚かったことくらい。毎日あれもしなくてはこれもしなくてはと思っているうちに一日過ぎる。海が好きだったのにもう怖くて見られない」

宿に帰りお風呂で温まってから以前講演によんでくれたいわきJCの小泉さんと有賀さんの話を聞く。それぞれ設備関係の会社経営で震災以降、働き詰め。そのお仕事自体、生活の復旧にかかわる急務だ。瓦屋さんは2年待ちだという。「震災、津波、原発、風評被害の四重苦の上、家に不幸があったりまだ小さい子どもを心配したりと2ヶ月飲み会なんか出られなかった」。いわきにモスクがあり、炊き出しをしていることはご存じなかった。いっぽう避難所を出る人たちのためにモスクが蒲団を買っていることを話すと、平競輪場に蒲団がどっさりあるのでは、という。ここでも物資は集まったが、その荷をほどき、しかるべき分配をする人がいないらしい。


【5月21日】 唐揚げと肉じゃが
 今日はわたしたち文京区チームが日本食をつくる日。だけど4時間もあればじゅうぶんだから、きのう見つけた宿の近くの魚やさんにサバを頼んであるし、と映画「フラガール」で有名な「スパリゾートハワイアンズ」へ行ってみたがもちろん閉鎖中。そのへんのスカイラインをフラフラ走って内郷へおりラーメンを食べた。いわきは広く4・11の余震では山間部の道が崩れたりした。あちこち通行止め。飲食店もパチンコ屋も営業中。

実際には場所によっては朝や昼は自分たちで炊事しているところもある。わたしも東京にいると「自分なら一週間とは耐えられないだろう。配食より自立支援のほうが大切なのでは」と思っていた。しかし来てみると避難所に残っている方はお年寄りや乳幼児連れが多い。行政からは日替わりでいわき市職員、そのほか県職員、長崎からの支援職員がいて、長くいる長崎の職員のほうが避難所に通じているといわき市の方。私たちだって最初の日は炊き出しにとまどったが、二日めからは場所にも道具にも慣れたもの。

モスクに着くと心配したムスタファさんたちが鶏肉の皮をみんな外してくれてあったが、本来は皮付きで唐揚げを作るはずだった。肉じゃがに入れるべき牛肉はなくこれも鳥を使うことに。頼んだサバはかちかちに凍り、解凍しておろさなくてはならない。さあ、間に合うか?私たちは浅田さんの号令のもと実によく働いた。どうにか6時には江名小学校にご飯、サバの味噌煮、肉じゃが、唐揚げ、キャベツと胡瓜の塩揉み、という豪華メニューを届けることができた。うれしかったのは昨日会ったJCのお二人が忙しいなか、いちご入りシュークリームをおみやげに様子を見にきて、配食も手伝ってくれたことだ。こどもたちは大喜び。「用もないのに冷やかしにいくみたいで避難所に来られなかったのでいい経験になった」とお二人はいってくれた。

それにしても何でムスリムの人たちがこれほど日本人のためにはたらいてくれるのか?
「アラーの神は隣人が困っている時に助けないものはムスリムではない、といっています」と簡単な答えだった。アキルさんは貿易商だそうだが、「そんなに仕事をやすんでいわきばかり往復していいんですか」と聞くと。「大丈夫、私のいない間は神様が代わって仕事をしてくださいます。そしてそっちのほうがいい仕事ができるんです」とにっこりした。小学校では言われた数より多い食事が出た。避難所にいない人も食べたりする。「そういうの、気にしないんですか?」と聞くと」「どうして?」と不思議そうな顔。おなかがすいているひとが来たらあげるのが当たり前、というのだろう。わたしは自分の狭量を恥じた。避難所のひとが食べ終わると職員にふるまい、最後は自分たちと手伝ってくれたJCの方たちで楽しく食べた、これも行政からお金が出ていれば問題もあろうが、なんたって自分たちでお金を出して作っているご飯なのでやましいことはない。そしてムスリムの方たちは「いっしょにたべること」をとても大事にしている。手伝いにいった私たちにも毎回、カレーをいっしょに食べようというし、休憩にはマサらティーを入れてくれる。これ大好き。
 片付けたの終わったのが7時半、それから車を飛ばして東京に着いたのが11時だった。

「広野町の住民がいわきに逃げ、いわきの人は東京に逃げ、東京の人は京都やパリに逃げている」という言葉が忘れられなかった。もうどこにも安全なところなどない。

森まゆみ

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