シンポジウムの会場に伊達東仮設管理人の長谷川さんを訪ねました
5月10日、渋谷区で開かれたシンポジウムで、飯舘村から福島県伊達市の伊達東仮設住宅の長谷川花子さんが登壇。「仮設住宅の暮らし」を話されるというので、聴きに行ってきました。
ミシンを寄贈するために運んだ12月15日からほぼ5ヶ月。長谷川さんはお元気で仮設の暮らしを「までい」(注:文末)に語っておられました。
【飯舘村、津波、震災から3年目の今、が語られる】
5月10日(土)国学院大学常磐松ホールで、シンポジウムが開かれました。
「飯舘村放射能エコロジー研究会20104東京シンポジウム~あれから3年 震災・原発災害克服の途を探る」と題したもので、内容は以下のようなものです。
(東京新聞5月12日・20~21ページの〈こちら特報部〉で、「飯舘村 初期被ばく追う~国の避難判断遅すぎた 平均7ミリシーベルト 県発表の倍」としてこの記事が掲載)
〈第一部=飯舘村民からの発言 第二部=震災・津波被害からの復興 第三部=放射能汚染とその影響〉
第一部と第二部はほぼ飯舘村に焦点が絞られ、第二部は津波の被災地の復興再生について(大船渡市)、宗教と被害支援、震災復興に活きる伝統文化、などがそれそれの専門家から語られました。
【仮設にお年寄りが多い理由】
「飯舘村民は約6000人で、9カ所の仮設住宅と、公的宿舎や借り上げ住宅、それと老人ホームなどに分れて避難生活をしています。私が管理人を務める伊達東仮設は舘村から車で約40分、91世帯147人の方が暮らしています。やることがないと体にも心にも悪いので、毎週お茶を飲む会を開いたり手芸や裁縫の会を開いたりしています」。
第一部で村民のトップバッターとして登壇した花子さんは話を始めました。
「飯舘村では多世代大家族で住んでいた方がほとんどですが、原発事故以来、子どものいる若い世代は福島市や県外などに避難したりしています。福島市などの市街地で最初は家族と一緒に避難暮らしをしていたけど、若い人たちは昼間みんな仕事や学校に行って昼間独居になってしまうお年寄りたちが、「同じ飯舘の人で昼間人のいる仮設で暮らしたい」と引っ越してみえた人も多いです。仮設はこのように、お年寄り、ことに女性の独り暮らしの方がとても多いんです」と、仮設の現実を話します。
「飯舘村は元々農業、酪農、畜産で暮らしを立てている人が多い土地ですから、お年寄りたちもみんな自分で野菜を作っていました。それで、今では仮設の近隣に6カ所の畑を借りてみんなで野菜を作っています…」
【レポート作成中に花子さんから電話が】
…と、ここまで書いたら、昨日送った上記の東京新聞のコピーが「着きましたよ」と花子さんから電話が来ました。
「畑は今何が採れてますか?」と訊いたら「ほうれん草や菜花なんかの菜っ葉類ですね。それに、カボチャの種を蒔き始めたりしています」とのことでした。「苗でなくて種から?」と驚くと「みんな以前からやってきたやり方で、種から蒔くのが普通なんですよ」と電話の向こうで笑っておられました。「今ちょうど、支援の仲間にレポートを書いているところでした」と言うと、「よろしくお伝えください」と言付かり電話を切りました。
【子どもたちの記憶から遠くなる飯舘村をつなぎ結ぶお年寄りたちとの交流】
シンポジウムでの花子さんの話に戻ります。
12月にミシンを届けた時にもレポートしましたが、手芸で作ったお手玉を、世話になっている伊達市の近隣の小学校に寄付して子どもたちと交流をしたのをきっかけに、昨年の夏は自分たち飯舘村の子どもたちが学んでいる仮設の小学校にもお手玉や手芸作品を持って出かけ、交流会を開いたそうです。
「原発事故から2年半も過ぎて、飯舘の子どもたちは飯舘のことを忘れかけているので『飯舘はどんな村だったのか教えてほしい』と言われました。『質問を受けます』という形にしたところ、子どもたちは『どんな建物があったの?』『どんな動物がいたの?』などなど、目を輝かせてお年寄りを質問攻めにし、心の通う会ができました。知っている家の顔を見知っている子どもたちは自分の孫も同然。お年寄りたちはとっても喜んで『いやぁ、楽しかった、遊ばせてもらった』と晴れ晴れした顔を見せていました」とのこと。帰路、同じ飯舘の方が育てているひまわり畑に立ち寄ると育てている方が「ここのひまわりは南でなくて、飯舘の方向の東を向いて咲いている」と自慢するという、夏の一こまもあったそうです。
【津波の被災者にも思いを致すことを忘れない飯舘の皆さん】
「お年よりは車を持っていないからなかなか外出する機会もないので、遠出も考えました。自分たちの原発の被害も大変だけど、津波に遭った方々も家を流され家族をなくされたりしている。そういう所を訪ねて自分たちも震災・津波の被害を知ろう、とバスを仕立てて東松島を訪ねました。その帰りに飯舘の方が避難している相馬の仮設を訪ねた時は、本当に喜ばれました」。村は住む所だけでもあちこちに分断されているのです。短い時間でしたが友人知人たちとの再会に、皆さん大いに感激したそうです。
「今年はいわきに行き、帰りに福島市の松川仮設に寄ってきました」とのこと。津波の被害を蒙った方々の苦労や辛さに思いを致せるのは、自分たちが苦難の中にあるからこそかと、他を思いやることを忘れない飯舘の方がたの心に、話を聞いていて胸が詰まりました。
【夫の健一さんは飯舘村の避難と初期被ばくの様子を】
続いて、花子さんの夫の健一さんが登壇。健一さんは酪農家で、家族で牛を飼って生業としていました。
健一さんは、原発事故直後からの国と県、村、専門家たちが発した誤った情報に翻弄され続けた3・11から春、そして夏までの村の様子を語りました。
「本当は高濃度に放射能汚染された放射性プルーム(雲の流れ)が通過してすぐに逃げれば良かったのに、県が雇った専門家たちがやって来て『大丈夫、安心していい。留まっても安全』と繰り返しくりかえし説いたため、一旦避難したのに村に戻って来てしまった人もいる。全然避難しなかった人も沢山いて、飯舘村民は誤った情報によって、無用な被ばくをさせられた」と語りました。
そのうえ、全村避難指示が4月22日までズレこみ、最終的に村を出た人は7月、8月の旧盆までいたことなどを語り、国、県、村の無策と原発事故の被害の深刻さを語りました。
さらに、県民健康管理調査の結果から推計された外部被ばく線量について、県の不親切な数字だけの発表を、他市町村と飯舘を比較した見やすく描いたグラフを示し、データ的にもいかに飯舘村民の被ばく線量が高いかを示しました。「マスコミもこんな風に分かりやすく報道してくれない」とも。
事故後に行政として動かず子どもさえ避難させなかった村、村民を村に留めようとした県、今、線量の基準を勝手に解釈を変えて無理やり帰還させようとしている国にも、怒りを込めた声が続きます。
健一さんが最後に締めくくった「国は原発事故も放射能汚染や被ばくのことなども『無かったこと』にしたがっている。それは許されることではないし、飯舘だけでなく、原発被害は続いている。飯舘のことをどうか忘れずに、これからも見守ってほしい」という言葉を、忘れてはならないと思います。
【ミシンは大活躍!つないでくださった菅野栄子さんもお元気】
休憩時間にお2人の所を訪ねて5ヶ月ぶりの再会のご挨拶をしました。
壇上でのお話しの続きなどもうかがい、最後にミシンの様子をうかがいました。ミシンはどれも大活躍しているそうです。
「今はランチョンマットを縫っています。パワーがあってしっかり縫えるミシンで、本当に助かっています」とのことでした。お手玉が小学生たちとの交流の一助となったように、このランチョンマットが、また新たな人とのつながりになることだと思います。
また、谷根千・駒込・光源寺隊と伊達東仮設、着物をお送りした松川仮設をつないでくださった、伊達東仮設に住む菅野栄子さんもお元気で、漬物作りや野菜づくりに励んでおられるとうかがい安心しました。
【までいの心は強い心。村を離れても生き続ける心】
この日のシンポジウムでは後半に〈飯舘村の方々の初期被ばく線量が、県や国が発表している3.5mSv程度のほぼ倍に当たる7mSvである〉ことが、京都大学原子炉実験所の今中哲二さんから報告されました。
この数字は、飯舘村の土壌汚染を詳細に分析し、村民1812人に対して丁寧な聞き取り調査をした結果から導き出された、信頼性の高いものです。
飯舘の方々の被害とこれからの道のりは、決して平坦でも生易しいものでもない現実が突きつけられていますが、飯舘の皆さんが現実に目をそむけずに放射線被害に立ち向かっている姿には、頭の下がる思いがします。
ご苦労を思いつつ、同時に、皆さんが日々を「までい」に紡いでおられる姿勢に深く心打たれたシンポジウムでした。
(までい:福島の方言で、丁寧に心を込めて何かをすること。例:「雑巾がけは隅までまでいに拭けよ」「牛の世話をまでいにする」「漬物はまでいに塩をしてね」など)
(レポート/菊池京子/2014・5.13)