なだらかな丘の上、緑の中に「原発災害情報センター」
報告 菊池京子(谷根千・駒込・光源寺隊)
福島県白河市に設立され、今も整備が進められている「原発災害情報センター」を、去る6月7日に訪ねてきました。遅れましたが、ご報告をします。
なお、同センターのホームページと関連サイトは次のとおりです。概要や開設の経緯については、こちらをご覧ください。
http://genpatusaigai.web.fc2.com/
http://www.am-j.or.jp/schedule/120906.htm
〔白河の原発災害情報センターに2便。本や資料約100点超を支援〕
原発災害情報センターには、昨年(2014年)9月(約80点)と今年の3月末(専門報告書を中心に約40点)の2回、谷根千・駒込・光源寺隊は資料や図書を寄贈することで支援をしています。
同センターが寄付を募っている図書や資料は、「原子力発電、原発事故(過去のすべての事故含む)、エネルギー、放射能、災害、自然災害」などに関連するものです。
原発事故以降、原発や放射能関連の情報を収集・取材している中で、このこと知った私は、昨年、谷根千・駒込・光源寺隊の皆さまにメールや谷根千震災字報で、図書や資料の提供を呼びかけたものが中心です。
ありがたいことに多くの方がこれに応えてくださり、たくさんの資料や図書が寄せられました。遠くは九州から、水俣病関連のものを含めて送ってくださった方もあります。
届いた図書や資料は光源寺の蓮華堂に一旦集積。光源寺さんからはかわいらしい本棚をご提供いただいて、「送られ待ち」の図書や送り切れなかったものは「谷根千・駒込・光源寺隊文庫」として現在も置かせていただいています。
資料と図書はリストに整理した後、内容等を適宜見繕って、谷根千・駒込・光源寺隊のスタンプを押したうえで当地に送り出しました。
他に、国や地方自治体や専門家たちなどが、原子力政策や国民への放射能対策について政策決定や答申、様々な会議での議論の根拠としている、国際機関(UNSCEARやICRPなど)の重要な報告書の他、事故調査書なども、お預りして入る支援金で購入し、送っています。
ご協力いただきました方々に改めてお礼を申し上げるとともに、この活動は今後とも長く続ける所存ですので、気長なご協力をお願いいたします。
リストをご覧になりたい方はいつでもご一報ください。
〔ソーラーパネルも子どもの甲状腺異常も日常の長閑な景色の中に並存〕
さて、この図書寄贈を提案した私は、館長の長峰孝文さんと幾度もメールのやりとりをさせていただいてきました。たくさんの寄贈に驚きと感謝の返信も頂戴していますことを遅れ馳せながらですが、ご報告します。今回の訪問も関係者の皆さまが喜んでくださり、歓迎を受けました。
千駄木を朝7時半に出、赤羽―宇都宮―黒磯と乗り継いで、福島県境を越えた最初の駅・東北線白坂駅に下り立ったのは11時前。思ったよりも近かった、という実感です。
白坂駅は無人駅で、滴るような緑の中にありました。ホームにも草々の力が迫ってくるようで、そこに下り立ったのは私1人でした。
駅前にはお店もなく、自動販売機一台、くすんだ赤いポストが少し傾いで立っています。
目的地は駅から徒歩5分。普通の住宅の並ぶ普通の舗装道を辿って、数十メートル先の目印と教えられたソーラーパネルの並ぶ斜面を曲がります。すると、その斜面の上に、目指すセンターがありました。
原発災害情報センター、という硬い名前とはギャップがある佇まいですが、周辺の長閑な雰囲気の中では、「そんなことどうでもいいか」とのんびりした気持ちになります。
緩い坂を上っていくと60~70代の女性2人が降りてきたので「こんにちは」とご挨拶。オバチャン同士の世間話をし、「あそこは原発や放射能に関係した本を揃えるところだから、訪ねてみてくださいね」と、それとなくセンターをPRします。
すると1人の方の口から「うちの親戚の子どもが切ったって」と、喉元を手で指しました。県民健康管理調査の検査で小児甲状腺がんがみつかった、というのでしょうか?
いかに長閑な風景とはいえ、やっぱり原発事故が無関係でないこと、この風景の中で営まれる日常生活中に切り離せず、放射能の危険が存在することを思い知らされます。
〔200年持つ日本の木造建物。眼前の南斜面にはソーラーパネルが一面に〕
おしゃべりを切り上げてセンターに着くと、長嶺センター長から今日の対応を託された運営委員の三木平子さん(長嶺センター長は生憎不在)と、隣接する「アウシュビッツ平和博物館」の館長である小渕真理さんらが出迎えてくれました。
さっそく、本館を見学。大工の棟梁の釘一本も使わない日本建築独特の仕事であること、要所要所の壁は漆喰仕上げであること、200年は持つ建物であること、などの説明を受けます。吹き抜けの天井、高い所を渡る太い梁。製作途中のウッドデッキでは棟梁の指導を受けたボランティアさんが、仕上げのデッキ板を貼っていました。
聞けばこの方は、相双の原発近くの町からこの近隣に避難移住した方だということで、さきほどの女性の話とともに、日常の中にある原発災害を実感させられます。
今回一番見たかった図書サロンは隣接の別棟で、これも日本建築。本館よりも整備が遅れていますが、1階のフリースペースには福島在住の詩人で美術家の千葉節子さんの写真展「「FUKUSHIMA SKY~空はいのちをつないでいる Change Hearts, the World Changes」に使われていました。区切りも仕切りもない、いろんな表情をした空の写真が印象的。この日が最終日でした。
2階の図書サロン部分には、真新しい作り付けの木製の書棚が並び、図書館分類法のシールを背に張った本が少し並んでいました。
「まだまだ本格的に手をつけるところまで行かないのです」と話す運営委員の1人である鈴木さんは、東京からときどき通っているそうです。
「谷根千・駒込・光源寺隊の中からは、図書の整理のボランティアがあれば参加したいと言う声もあがっています」と伝えると、「そういう日が早くくるようになるといい」と、歓迎の意向を示されました。
ざっくりと見学させていただくとお昼どき。張りあがったばかりのウッドデッキで皆でそれぞれ持参のおにぎりやお弁当でおしゃべりしながら昼食をいただきました。
〔ひとつずつ課題をクリアしようと智恵と意見を出し合う〕
午後1時、近隣の運営委員の方々も到着され、運営委員会が始まりました。図書寄贈の谷根千・駒込・光源寺隊代表として、私はオブザーバー参加させていただきました。
まずは、このセンターで開かれたイベントなどの報告や今後の活動についてなどが話されます。次いで、事務的なことも含めて、センターの管理運営について。また、会報の編集などについても、集まった数人の委員たちがざっくばらんに意見を交換しておられました。
図書サロンに関連する事項としては、図書の分類整理は前述のとおりですが、2階の漆喰仕上げの部分がまだ手付かずで今後の作業の準備についても話されていました。
まさに手作りの情報センターなので、今後、谷根千・駒込・光源寺隊としても図書寄贈だけでなく応援・支援、手伝えることはあるのではないか、と感じました。
運営委員会の後は、図書サロン1階で開かれていた写真展の千葉さんもみえて、慰労会も兼ねた運営委員の交流会となり、これにも参加させていただきました。お酒も入ったので、みなさんの話にも熱が入ります。
私としては白河を訪れるのは初めてのことで、白河市や近隣の西郷村に住む方々のお話を聞いて、福島市や郡山市、いわき市など、福島県といっても土地によって原発事故や放射能汚染の受け取り方が少し異なるという印象を持ったことではあります。
それともそれは単なる個人差であるのか?
ただ、小渕さんが「白河からだと福島市まで行くと1日仕事」と話しておられ、福島県のあまりの広さを、福島県以外の方々は多分実感はしておられないだろうことを、改めて思わないわけにはいきません。福島県出身者の私だから、小渕さんの話しに深く頷けるのですが『縁のない人にはこの広さの感覚は分からないだろうなぁ』と感じた次第です。
〔原発と放射能汚染被害について、3つの嫌な動きに後押しされて訪問〕
東日本大震災とそれによって引き起こされた福島原発事故から5年目。東京にいると「まるで原発事故などなかったかのよう」に世の中が進んでいるように見えることがしばしばですが、やっぱり原発震災は終わっていないこと、それどころかますます混迷して、本当に大切なことや本当に大変なことは、その混迷の中で巧みに隠されている現実があることを、あれこれ情報収集・取材をして回っているとひしひしと感じるこのごろです。
今回このセンター訪問を思い立ったのも、皆様に「どんな所に図書寄贈をしていか報告せねば」という思いと同時に、実はこうした危機感が大きく私を後押ししました。
福島では(だけでなく日本全体で)原発事故災害や放射能のことに関して様々な意見や見解、調査分析やデータが雑多に渦巻いていて、官民挙げての「放射能は心配ない」とする安全情報が強くなっているように感じています。
情報の出し方、出され方、その情報の行方と市民・県民・国民の受け止め方が、大きく歪んだり軋んだりしているように思えてしかたありません。
原発災害の当地である福島に、偏向しないであらゆる資料や図書が蓄えられ、一般人の誰でもがニュートラルな形で偏らない情報に接することができることは、今後ますます必要かつ重要になることだと思えます。
原発災害情報センターに対して、谷根千・駒込・光源寺隊もそのための支援を今後も続けられたらいいのではないか、と常々思っていますがいかがでしょうか。
実は、原発事故に関連する政策が昨年から今年にかけて、私に言わせれば「いやな動き」が続いています。と私は感じています。事故原因の究明や事故による様々な影響の検証も行方や収束の方向性も見通せない中で、これは肯定しがたい、と思うような動きです。
① そのひとつは、避難指示を解除して年間被曝線量20mSv(20mSv/年)の土地への帰還政策が強引に進められてきていること。これは同時に、被曝回避と健康被害回避のために県内はじめ日本全国各地に避難している人たちへの住宅支援の打ち切りなど、支援を縮小することで縛りをきつくし無理に帰還させようということと同じ根っこを持ちます。
② ふたつめは、緊急時の原発作業員の被曝線量限度が250mSv※に引き上げられるなど、被曝労働の強化を許容させようとする動き。これは、前記の20mSv/年の土地への(強制ともいえるような)帰還政策をさらに推し進めて、一般国民に対しても被爆限度や許容量を緩めて行こうとしているのではないか、という意図が見てとれます。
こうした動きは、福島の中で(県外に対しても)県民への「安全神話」を浸透させようとする動きがとても強くなっていることと並行しています。
〔※250mSvについて=250mSvには、後ろに/時、とか/年とかは付きません。今後原発では(福島に限定せず今後再稼動される可能性のある原発全部を視野に入れて)どのような事故が起きてどんな作業が必要になるか分からないので、単に「緊急時」という表現で議論され、決められたものです。「緊急時」というのが1週間なのか1カ月なのか半年なのか1年なのかも示されてはいません。福島原発事故では、発生直後の1~2カ月でこの程度の被曝をした作業員がいました)。
③ 三つ目は、これがもっとも案じられることですが、2011年から続けられている県民健康管理調査のうち、事故当事18歳以下だった人を対象とする甲状腺検査では、127名(2015年3月末時点:受検者は4年間で約30万人中)が「がんまたは悪性疑い」という結果が発表されたことです。毎回発表のたびに増える人数に、私はいつも心がざわざわし暗澹たる気持ちになります。
この127人のうちほぼ100名がすでに手術を受けていて、一昨年あたりより、昨年からこっち、手術のペースが加速しているように見受けられます。
最初の3年で検査は県内を一巡しました。そしてこの結果は、国も県も県立医大も「原発事故の放射能とは関連が考えられない」としてきました。その理由を「チェルノブイリでは4年目から甲状腺がんが増えたから」とか「普通なら検査しなくてもいい子どもたちを過剰に検査したから」とか「機器の精度が上がったから」、などとしていますが、2巡目となる昨年度には前回はまったく異常なしだった人がいきなり「がんまたは悪性疑い」となっています。
これでは、前述の理由は成り立ちません。そして、発表のたびに増える人数。福島県内だけでなく東日本全体の子どもたちの健康が非常に懸念されます。
子どもの健康がどうなっていくかだけでなく、大人の健康もまた、注意深くみられるべきでしょう。それはすなわち、放射能を管理すべき国が、汚染の高い土地で人々に生活を継続させていることや、汚染地への無理矢理の帰還政策や、緊急時作業員の被曝線量の緩和など、健康と命に直結する問題と全部つながっています。
今回訪ねた原発災害情報センターの存在は、「情報は命に直結するもの」として、福島県内に住む人だけでなく、誰にとっても大切なものではないかと私は考えます。
今後もこれらを追いかけるつもりでいることと、谷根千・駒込・光源寺隊の皆さまにも時折とはなるでしょうが、知りうる情報をお届けして、このような重要な問題があることを忘れないで注視していただきたいと伝え続けたいと考えています。
(2015.7.7)